『四国八十八ヶ所お遍路紀行』無事終了しました

今回、信徒さんと四国八十八カ所のお遍路に行ってまいりました。四国のお遍路は最近、非常に人気があるといわれています。その数年間15万人。その人気の秘密は何なのか?宗派は違う真言宗ですが、自分で体験することでその秘密に近づけるのではないか?と思いました。


通常、四国中のお寺を参拝するわけです。富士山より高い山の頂上にあるお寺もありますし、境内から太平洋が一面に見渡せるお寺もあります。全部歩けば全長4000キロ、50日はかかるといわれています。


50日かけて歩きたい気持ちが高ぶっていたのですが、保育園の園長も首になってしまいますので、泣く泣く今回は10日間で自動車ですべてを回りました。


太田インターより信越、中央高速、淡路島を抜け四国徳島県まで9時間。極楽寺に到着。2日目より1番寺から一日だいたい10ケ寺から13ケ寺を回りました。まず、お寺に到着すると水屋で手、口を清めます。そして本堂前でロウソクを灯し、線香をあげ、お経を挙げます。これを大師堂(空海大師の御廟)でも繰り返します。最初は面倒ですが、多くのお遍路さんと一緒にやりますので次第に慣れていきます。


四月の半ばでしたが、日本列島からまだ寒さが抜けない中、高速でも、お遍路中でも山桜や、山ツツジ、野山の鳥たちの声がとても心地よい毎日でした。


驚いたことに私の想像以上に歩き遍路の多いことでした。宿の方に聞きましたら例年よりも少ないそうですが、200人以上は歩いていたと思います。20代の方や、定年退職された方、夫婦で歩いている方や、ご兄弟、外国人の方も少なくなかったです。


こんなに多くの人がはなぜ歩くのでしょう?人生で大きな挫折を味わったとき、自分を見つめ直したいとき、人は旅にでます。そんなときの旅はたいてい、徒歩の一人旅ではないでしょうか。

やはり、心を落ち着けて自分を見つめるには、旅は徒歩でなくてはしっくりこないのかもしれません。でも、なぜ徒歩なのか?


私は、①自分の力で ②地に足をつけて ③一歩一歩、着実に進むこと が重要なのではないかと思います。

大きな挫折を味わえは人は自信を失います。親を亡くした人、子供に先立たれた夫婦、離婚した方、リストラされた社員、就職できない若者、いじめを受けうまく周りにとけ込めないでる人など。人それぞれの挫折があります。 もう、自分は立ち直れないのではないか。誰も自分を必要としないのではないか。ネガティブな思考に取り憑かれて、前に進めなくなります。

しかし、そんなときでも、私たちが確実に前に進める方法があります。歩くことです。自分の力で、地に足をつけて、一歩一歩着実に進んでいけば、少しずつ自分のペースをとりもどすことができるでしょう。


お遍路の途中に「おせったい」と呼ばれるみかんや、飲み物などがあります。こんな旅先で出会う、見知らぬ土地の人たちとのささやかな交流は、人間に対する希望を取り戻すのにも一役買ってくれます。そうして心を落ち着けて前に進むのでしょう。


お遍路を修行に譬えて徳島県を「発心(菩提の心をおこす)の道場」→高知県を「修行の道場」。愛媛県を「菩提の道場」。香川県を「涅槃(悟りの境地)の道場」と呼んでいます。ちょうど40ケ寺あたりでしょうか?愛媛県「菩提の道場」あたりになると参道を歩くときも、お経をお唱えしているときもなにも考えていませんでした。ただ、ただ行うだけ。それがとても心地良い。


お経は意味がわかればそれはそれでよいですが、意味がわからなくてもよいと思っています。一般の人はお経は今は法事やお葬式がメインになっていますので「悲しい場面で聞くもの」と思われていますが、しかし、実はお経は聞いて悲しむものではなく、読んで味わうものであり、むしろ楽しむべきものです。お経はお釈迦さまの教えが説かれています。そして音やリズムそのものにも感動を呼ぶ力があります。声明(しょうみょう)という旋律や、ご詠歌、モンゴルのお坊さんの般若心経などは地響きのようですごいです。


そして、何よりも感動できるお経といえば、自分と信徒さんが一緒に大きな声を出して読むときのお経です。お釈迦さまの言葉であるお経を大勢の人と声をあわせて読めば、まるで今自分が沢山の仏弟子たちと一緒にお釈迦様の説法を聞いているような一体感が生まれて、なんともいえない大きな感動に包まれます。


そして、最後の87、88ケ寺目で結願(けちがん)したときの感動は忘れられません。とうとうここまで無事に来たという安堵と達成感がみなさんの顔にありました。

そして、最後は空海大師が未だに修行中だと信じられている高野山奥の院です。ここは本当に和歌山県の山奥ですが、お寺というより一つの町でした。我が永平寺とは比べ物になりません。世界文化遺産にも指定されています。お墓の数は25万。歴代の武将や公家、最近は企業の墓などがずらっと立ち並んでいました。


奥の院だけは、撮影禁止、お参りの仕方もすべて作法が決まっています。この空海大師が未だに修行されている御廟の前で、みなで各家先祖代々の供養、また瑞巌寺檀信徒各家先祖代々、有縁無縁諸精霊、とすべての人々の幸せと世界平和をご祈念させていただきました。お唱えしている私自身が涙声になっていました。


お遍路はスタンプラリーではありません。お遍路をすることによって自分を癒し、自分を磨き精進させることが大切だと思います。

お遍路を終え、少しお遍路の魅力が分かったような気がしました。感謝。


合掌


平成二十二年四月 吉日

副住 職      長 谷 川 俊 道