法事について教えてください

◆なぜ「法事」を営まなければならないのですか?

故人の冥福を祈り法要を営むことを一般に「法事」と呼びます。故人に対する追善法要が目的です。 正しくは「追福修繕」といい、故人のために生きている者を善行を行い、故人があの世にいっても安楽になるようにつとめるのです。

よく死者に対して「冥福を祈る」といいますが、「冥福」とは冥土の幸福のことで、それを祈るのが追善という善行です。 追善にはいろいろな方法がありますが、最も重要なのが法事という宗教的儀式です。


亡くなって「四十九日」までを中陰と呼ぶ、その意味は?

人はなくなってすぐに、地獄とか極楽に行くわけではありません。

昔のインドの教えによると、亡くなって四十九日間の間に来世の行き先が決まるとされています。 来世とは仏教の教えである六道、すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天のことです。


経典によると、受胎した瞬間を生有、生きている間を本有、死の瞬間を死有と呼び、 次の世に生まれるまでの間の四十九日を中有とか中陰と呼ばれています。 中陰の供養は初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)と七日ごとに続きます。


「初七日」から「四十九日」までの法事の日どりは?

・初七日 死後 7日め

・二七日 死後 14日め

・三七日 死後 21日め

・四七日 死後 28日め

・五七日 死後 35日め

・六七日 死後 42日め

・七七日 死後 49日め


「初七日」から「四十九日」まで、すべての法要を営むのが本来ですが、七日ごとに法要を営むのは大変だということで、 現実には「初七日」と「四十九日」の二回、行うのが通例となっているようです。初七日は葬式と同じ日にすませることもあります。


「満中陰」、「四十九日」の仏教的な意味は?

中陰期間の法事の中でも、「四十九日」の法事は、省いてすますとうわけにはいきません。「四十九日」は、故人の行く先が決定する重要な日です。

七日目ごとの審査では生前の行為がすべて明らかにされます。 もちろんかくしたり、ウソをつくことなどできません。


「四十九日」は「満中陰」とも呼ばれ、 この日には十分な供養を行えば故人は成仏できると信じられています。この世で縁のあった人、 まして父や母があの世にあっても幸せにと想うのは生きている人の切なる願いであるといえないでしょうか。


また、中陰期間の法事は、たんに亡き人のためだけにあるものではありません。 中陰期間の法事を営むことによって、故人に対する感謝と想いをあらたにし、また仏教の教えに出会う縁の場ともなるのです。


中陰期間の王と守護神

◎初七日 死後 7日め、裁判官は秦広王。書類審査によって生前の行状が裁かれる。守護仏は不動明王。


◎二七日 死後 14日め、かの有名な三途の川。冥土の旅の最初の難所。裁判官は初江王。守護仏は釈迦如来。


◎三七日 死後 21日め、ここでは生前の邪淫の罪が裁かれる。裁判官は宗帝王。守護仏は文殊菩薩。


◎四七日 死後 28日め、秤をつかって生前の罪状の重さが決められる。裁判官は五官王。守護仏は普賢菩薩。


◎五七日 死後 35日め、水晶の鏡に生前の罪状が写し出される。裁判官は閻魔大王。守護仏は地蔵菩薩。


◎六七日 死後 42日め、五官王の秤と閻魔大王の水晶で生前の罪状が再吟味される。裁判官は変成王、守護仏は彌勒菩薩。


◎七七日 死後 49日め、ここで最後の審判が下される。裁判官は太山王。守護仏は薬師如来。


四十九日」を「忌みあけ」と呼ぶのはなぜですか?

「忌み明け」とは忌みごもりをしていた遺族が日常の生活にもどるという意味です。

中陰期間の法事でも、この日の法要は盛大に行われます。


参会者には食事をふるまい引き出物も用意します。 中陰壇をかたずけ、白木の御位牌から黒塗りの新しい位牌に替えます。神棚がある場合は張ってあった白い紙をこの日にはがします。


形見分けも「四十九日」の「忌み明け」の時にします。対象者は、故人の近親者、親族、友人など。後で苦情がでないように分けることが大切。 原則として目上の人には贈りません。


法事の前日「お逮夜」には、どんな意味があるのですか?

宗派や地方によっては、葬儀や法事の前の日を「お逮夜」といい、大切な日として法要を営みます。 逮夜とは次の日に及ぶ夜という意味です。

もともとは葬儀の前夜に行う法要を逮夜法要といいました。 現在では葬儀の前にお通夜と営みます。そうすると通夜ことが逮夜ということになります。


さらに七日ごとの忌日の前夜に行う法要もすべて逮夜ということになります。「大夜」とも呼びます。 その意味は故人に最後に会う大切な夜です。


法事のあとの食事にはどんな意味があるのですか?

追善供養の法要の後にとる食事をお斎(とき)と呼びます。このお斎は「六波羅蜜」のひとつである布施行の財施にあたるとされています。


人間は食べなければ一日として生きていけません。したがって他人に飲食を施すということは無量の善根功徳となるのです。

一説によるとお釈迦様を囲み弟子達が食事をするのがならわしになっていたといいます。 その例にならい、故人の霊を中心に来席した人々と食事をとるようになったともいわれています。


また食事をともにすることによって、お互い自然と親しみがわき、初対面の人とも知己となることができる、これもお斎の功徳といえます。


七日ごとの法要「七」という単位に意味があるのですか?

仏教では「七」という単位と重要視しています。

その意味は定かではありませんが、古来インドの人々は「七」という単位を特別視してきたようです。


また、「七」という単位は生命の数という説もあります。

たとえば、動物の生命が生まれるには不思議と「七」がひとつの単位になっています。 たとえば、ニワトリは七日を三回重ねた21日で、ヒナになり、七面鳥は七日を4回重ねた28日でヒナになります。


さらに私たち人間は受胎してから十ケ月と十日で生まれるとされています。

これは、七日を40回かさねた日数です。 その他にもお釈迦様がお生まれになって七歩あるいたことからとか、六道をこえた七つ目とか様々な説があります。


「四十九日」の次の法事はいつになるのですか?

亡くなってから百日目に営まれる「百か日」です。「百か日」の法要は、「卒哭忌」とも呼ばれています。「卒」は卒業の卒で終わるという意味です。

「哭」は泣叫ぶという意味です。つまり、遺族の悲しみも、百日を経つころになると、なんとかおさまり、悲しみもやわらいでくるのが、 死後、百日目頃というわけです。


もともとは中国儒教の教えにもとずくものです。「四十九日」の後の再審にあたるとされています。しかし、基本的には、百か日は故人の行き先が決まって初めての法要になります。したがって「四十九日」までは不祝儀袋の表書きは「御霊前」 でしたが故人が仏になった、ということで、この日の法要は、表書きは「御佛前」と書きます。


「一周忌」、「祥月命日」、「月忌」の次の法事はいつになるのですか?

亡くなって満一年目に営まれる法要が「一周忌」です。したがって4月10日に亡くなった人の一周忌は翌年の4月10日になります。


「祥月命日」とは故人の亡くなった日のことですから基本的には毎年やってきます。 しかし、亡くなってから2年目の三回忌や6年目の七回忌などは年回忌法要の年にあたるため、その中に含まれません。亡くなった日が4月10日とすると満3年から5年目までの4月10日が祥月命日になるわけです。


「月忌」とは月ごとにめぐってくる命日のことです。 たとえば、ある月の15日に亡くなったとしたら、毎月の15日がその人の「月忌」ということになります。 いまでは、「月忌法要」もあまり行われていないようですが、「月忌」にあたる日には、仏壇に供物をして礼拝したいものです。


「年回忌」の意味は、中陰供養だけではいけないのですか?

四十九日間の中陰期間で死者の行く先が決まるとしたら、それ以降の供養は必要ないのでしょうか?そんなことはありません。


百か日や一周忌、三回忌は中国の儒教の考え方によるものです。実際『論語』には「父母が死して後家の年中行事、、、、父母の生存中の如く孝という」 とあります。父母の年回忌は家庭の年中行事として行えと説いているのです。更に年回忌を営むことは故人の供養はもちろんですが、 その功徳は、生きている人にも大きな利益をもたらすのです。また、四十九日間の中陰供養ではまだ不十分という考え方もあるようです。


法事の日時は命日より遅らせてはいけないのはなぜですか?

故人の法事の日どりは、その人が亡くなった日に営むのが基本です。しかし、さまざまの不都合で法事の日を変更しなければならない場合は、 一日でお早めにしなければなりません。


仏教には三悪道という教えがあります。地獄・餓鬼・畜生のことで、死者がこの世界に行くことが決まってからでは手遅れである、 そいうことがら法事は早めにという考え方ができたようです。故人の冥福のためです。遅れてはならないということを肝に銘じ故人の忌日は、 日頃から確認するようにしたいものです。


二つの法事を併せて営んでもかまいませんか?

法事とは故人一人ひとりものもですから、原則として一人に対して営むのが普通です。しかし、たとえば祖父の「十三回忌」と父親の「三回忌」が同じ月などの場合、 二つの法事を合わせて営むことがあります。これを「併修」とか「合斎」とか呼びます。「併修」をするときには、早い方の命日にあわせます。 4月と7月が命日の場合は4月に合わせるわけです。また、「一周忌」については「併修」しないのがしきたりです。まだ、死亡日が近いため、 「併修」では供養がおろそかになるからと考えられます。「併修」を営むにあたって気をつけなければならないことは、法事にあたる人は、 誰と誰かを案内状に明記しなければなりません。菩提寺にもその旨を伝えておくことが大切です。


法事は「三十三回忌」まで営めばそれでよいのですか?

法事の目的は先祖供養ですから、本来、何年で終わりというものではありません。

しかし、一口に先祖といってもその数は無数です。 そのすべてにわたって永遠に法事を行うことは実際には不可能です。

そこで、故人の法事は一定の期間で切り上げ、 あとはお盆やお彼岸にまとめて供養するならわしになっています。その期間というのが、一般的に「三十三回忌」とされています。 そこで「三十三回忌」を「弔い上げ」とか「問いきり」とも呼んでいます「三十三回忌」を過ぎると、故人の霊は完全に成仏したとされるからです。


「三十三回忌」の後の法事は、「五十回忌」、「百回忌」、、、と続きますが、五十回忌はともかく百回忌は特別な人でないかぎり営むことは少ないようです。 ただ、五十回忌が営めるような家庭は繁栄している証拠でむしろめでたいことといえるかもしれません。


「年回忌」の意味は、中陰供養だけではいけないのですか?

四十九日間の中陰期間で死者の行く先が決まるとしたら、それ以降の供養は必要ないのでしょうか?そんなことはありません。

百か日や一周忌、三回忌は中国の儒教の考え方によるものです。実際『論語』には「父母が死して後家の年中行事、、、、父母の生存中の如く孝という」 とあります。父母の年回忌は家庭の年中行事として行えと説いているのです。


更に年回忌を営むことは故人の供養はもちろんですが、 その功徳は、生きている人にも大きな利益をもたらすのです。また、四十九日間の中陰供養ではまだ不十分という考え方もあるようです。


「初七日」から数えて十三回ある法事にはどんな意味があったのですか?

「初七日」から「四十九日」までの7回の仏事はインドに起源がもとめられます。それに中国で「百か日」、「一周忌」、「三回忌」が付け加えられ十仏事が成立しました。


十仏事は、『十王経』にちなんでいます。『十王経』では十仏事のひとつひとつを司る王が死者の生前の罪を調べるとされています。 この十仏事に、日本においてさらに「七回忌」、「十三回忌」、「三十三回忌」が付け加えられ十三仏事となりました。年回忌の法要は三と七のつく年に営みます。

「三回忌」、「七回忌」、「十三回忌」、「十七回忌」、「二十七回忌」、「三十三回忌」と続き、「三十三回忌」の後に「三十七回忌」、「四十三回忌」、「四十七回忌」 を営む場合もあります。

前にも述べましたが、これらの年回忌法要は、故人の忌日より遅れてはなりません。


年回忌の守護神

◎百か日 死後 100日め、守護仏は観世音菩薩。

◎一周忌 死後 1年め、守護仏は勢至菩薩。

◎三回忌 死後 2年め、守護仏は阿弥陀様。

◎七回忌 死後 6年め、守護仏は阿閃(あしゅく)如来。

◎十三回忌から二十七回忌 守護仏は大日如来。

◎三十三回忌 死後 32年め守護仏は虚空蔵菩薩。


年回忌法要の数え方は、どのように数えるのですか?

亡くなった翌年の「祥月命日」に営まれるのが「一周忌」。

「一周忌」の次の年、死後満2年目の法事が「三回忌」。「かぞえ年」で数えるわけです。

満1年目は「かぞえ」では2年目になるわけですから、二回忌と呼んでもよさそうですが、死後一周年ということで「一周忌」と呼んでいるわけです。 翌年の2年目からは「かぞえ」ですから三回忌となるわけです。